B29-#42-69766

墜落日時    1945年6月5日
墜落位置    京都府綴喜郡青谷村木津川東岸
所属      第314爆撃団第330爆撃群第459爆撃隊
攻撃目標    神戸都市地域
墜落原因    戦闘機
TAIL CODE    ■K57
機体ニックネーム    City of Burbank Old Soldier’s Home  

搭乗員

機内配置氏名階級認識番号生死
操縦士(CAPT)Schlits, Donald J.中尉o-442569 X
副操縦士(CPLT) Rich, Kenneth W.准尉T4732 X
爆撃手(BOMB)Helm, Leonard W.准尉T9444 X
航法士(NAV)Picciano, Anthony A.少尉o-2079090 X
機関士(FE)Reed, George C.二等軍曹15081542 X
通信士(RDO)Scott, Robert C.少尉o-2076055 X
レーダー(RDR)Grunigen, David W.伍長19215657 X
中央火器管制(CFC)Boulay, Francis G.軍曹31362187 X
銃手(GUN)Collins, Woodrow W.軍曹16066952 X
銃手(GUN)Davidson, James H.伍長32989232 X
銃手(GUN)Chatham, Byron K. Jr.伍長12036503 X
 三重県明野教導飛行師団の檜与平大尉指揮の五式戦闘機部隊の攻撃を受けたものとみられ、井手町上空で煙を噴いて降下旋回し、木津川の河原に不時着を試みて爆発炎上した。墜落現場には、飛行機の残骸と焼け焦げた5人の遺体があった。彼らの遺体は憲兵隊の命令で現場付近に埋葬された。 
 6人がパラシュート降下して、綴喜郡青谷村で2人、多賀村で3人、草内村で1人が捕まり、井手警察署へ集められた後、昼頃、トラックで伏見憲兵分隊へ、さらに夕方、大阪の中部憲兵隊司令部へ送られた。彼らの氏名は以下のように推定される。
 Anthony A. PICCIANO少尉は、伏見憲兵分隊で通訳にあたった和田マサオが名前を記憶。Donald J. SCHLITZ中尉(機長)は、戦後の米軍調査により、8月15日午後に真田山陸軍墓地で処刑されたことが判明。Leonard W. HOLM准尉は大阪憲兵隊で獄死した模様で、戦後、米軍の墓地登録部隊が真田山陸軍墓地で遺体を発掘。George C. REED二等軍曹は、戦後の米軍調査により、7月20日に信太山演習場で処刑されたことが判明。James H. DAVIDSON伍長は、大阪憲兵隊の留置場で日本人の同室者が名前を聞いている。Robert G. SCOTT少尉は、伏見憲兵分隊で通訳にあたった福田リュウイチが、彼の名前と頭部の負傷を記憶。
 終戦後、近くに改めて墓を作り、深広寺には日本語と英語で「B29搭乗五勇士英霊」と書いた位牌が納められた。1946年3月20日にJeanday少尉が来て墓を発掘し、遺灰を回収した。 

参考資料等

POW研究会HP「本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士」
 http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/index.html
青森空襲を記録する会HP「本土空襲墜落機調査」
 http://aomorikuushuu.jpn.org/mia.html
中央評論『日本全国B29慰霊碑物語』(299号、305号)
 https://www.chuo-u.ac.jp/aboutus/communication/press/2019/02/912/
Investigation Division Report, Legal Section, GHQ/SCAP
 https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/LS.php