B29-#42-65305

墜落日時    1945年5月5日
墜落位置    大分県竹田市平田折立
所属      第314爆撃団第29爆撃群第6爆撃隊
攻撃目標    太刀洗飛行場
墜落原因    体当たり(第343海軍航空隊粕谷欣三二等兵曹)
TAIL CODE    ■O2       
機体ニックネーム

搭乗員

機内配置氏名階級認識番号生死
操縦士(CAPT)WATKINS, Marvin S.大尉o-801224
副操縦士(CPLT) FREDERICKS, William R.少尉o-780565 X
爆撃手(BOMB)SHINGLEDECKER, Howard T. 少尉o-777030 X 
航法士(NAV)KEARNS, Charles M. Jr.少尉o-698726 X  
機関士(FE)PONCZKA, Teddy J.二等軍曹6995646 X  
通信士(RDO)WILLIAMS, Robert B.伍長32494663 X
レーダー(RDR)PLAMBECK, Dale E.少尉o-2074768 X
中央火器管制(CFC)COLEHOWER, John C.伍長13176244 X
右銃手(R.GUN)OEINCK, Leo C.伍長2060571 X
左銃手(L.GUN)JOHNSON, Robert C.伍長33683187 X
尾部銃手(T.GUN)CZARNECKI, Leon E.伍長32753846 X
 長崎県大村飛行場を発進した第343海軍航空隊の粕谷欣三兵曹操縦の紫電改と接触し墜落。粕谷兵曹は大分県直入郡宮城村に墜落死。
 米兵の1人は熊本県阿蘇郡産山村大字大利に墜落死、別の1人は強く抵抗したため射殺された。これら2人はSHINGLEDECKERとKEARNS中尉と推定され、宮地町のフルクミ公共墓地に埋葬。また、JOHNSON伍長は阿蘇郡南小国村字星和にパラシュート降下したが、村民に追いつめられて自殺。OEINCK伍長は南小国村薊原(あざみはら)にパラシュート降下したが、村人に猟銃で射殺された。2遺体は南小国村星和字星和とフククボの中間に埋葬。
 他の7人はパラシュート降下した後、1人は熊本県阿蘇郡で、6人は大分県直入郡で捕まり、福岡の西部軍司令部に収容。このうち機長のMervin S. WATKINS大尉は、東京へ送られて終戦後本国へ帰還。その他の6人は、5月17日から6月2日にかけて4回にわたって九州大学医学部で生体解剖実験の材料とされて殺害されたと考えられる。
 戦後の戦犯裁判で、西部軍と九州大学医学部の関係者23人が死刑を含む有罪とされた。
 事件の33回忌にあたる1977年の5月5日、死亡した日米の飛行士を慰霊する「殉空の碑」が地元の人々によって墜落現場に建てられ、毎年慰霊祭が行われている。
【殉空の碑・碑文】
 昭和二十五年五月当時日本は敗色濃厚な大東亜戦争末期の極めて悲惨な戦況下にあった。国土は連日B29に焼かれ最後の砦の沖縄戦も絶望状態にあり一億国民は悲壮な決意をもって本土決戦を迎えねばならぬ運命にあった。  五月五日快晴午前八時すぎ久留米近郊の大刀洗飛行場を爆撃しその帰途についたB29の編隊に対し日本戦闘機これを追撃、熊本県阿蘇郡より大分県直入郡(当地方)上空において壮烈な空中戦を演じ日本戦闘機はB29に体当たりを敢行、B29はたちまち火を噴きこの地に激墜した。  日本戦闘機も近くの宮城村芹川に墜落し海軍少年航空兵は母からの手紙を胸にしたまま死亡していた。既に落下傘で降下していたB29の搭乗員十二名中多数の者は狂乱怒号の村民により暴行殺傷され、その中八名は所謂九大生体解剖実験の犠牲となった。  戦後三十三年たって当時を回想するにこれら犠牲者たちの姿が悪夢のように脳裏より去らず、ここに恩讐を越えて日米犠牲者たちの鎮魂供養の儀を行いご冥福を祈るとともに、かかる戦争の悲劇を二度と繰り返さぬための貴い教訓ともなればと念願しこの碑を建立する。

昭和五十二年五月五日 三十三回忌 
建立者 工藤 文夫  七十八歳
文 東野 利夫  福岡県中央区草香江
協力者 折立老人クラブ、地元有志

1977年(昭和52年)5月7日朝刊掲載の大分合同新聞