B29-#42-24766

墜落日時    1945年1月3日
墜落位置    愛知県豊田市
所属      第73爆撃団第500爆撃群第882爆撃隊
攻撃目標    名古屋
墜落原因    戦闘機
TAIL CODE    Z□22
機体ニックネーム    The Leading Lady

搭乗員

機内配置氏名階級認識番号生死
操縦士(CAPT)Wilbur E.Hurlbutt少佐o-1699361DED
副操縦士(CPLT) Felix P.Omilian中尉o-685171DED
爆撃手(BOMB)Glendon M.Aitken中尉o-741439DED
航法士(NAV)Edward H.Stoehr中尉o-738741DED
機関士(FE)Glenn C .Truesdel中尉o-859714DED
通信士(RDO)Joseph P.Nighan軍曹33623699DED
レーダー(RDR)Paul E.Dreyer技術軍曹13137567DED
中央火器管制(CFC)Karl Hunt軍曹11067825DED
銃手(GUN)Harold T.Hedges軍曹38400804
銃手(GUN)Frank J.Yanik軍曹33829896DED
銃手(GUN)Richard P.Steinberg曹長12101125DED
作戦観察者(PAS)Marcus A.Mullen中佐o-22829DED
 小牧基地から発進した陸軍飛行第55戦隊の代田実中尉操縦の飛燕の体当たり攻撃による。代田中尉はパラシュート降下したが、重傷を負い、翌日、名古屋海軍航空隊病院で死亡。
 B29は、機長のWilbur E.HURLBUTT少佐など11人が現場付近で墜落死。村人が現場付近で火葬して埋葬したが、戦後米軍対策として、遺灰を岡崎市欠町の岡崎公共墓地に納めて墓標を建てた。Thomas H.HEDGES軍曹はパラシュート降下して下山村花沢町鋳師釜の森に逃げ込み、翌日、豊橋憲兵分隊に捕まって岡崎憲兵分隊へ送られた。1月5日頃、豊橋憲兵分隊によって、名古屋憲兵隊を経て名古屋地区軍司令部に引き渡された。数日後、名古屋憲兵隊から大阪の中部軍司令部へ送られ、さらにその後、東部軍司令部へ送られ大森俘虜収容所に収容された。戦後米国へ帰還。
 墜落現場の坂上町では自治会が中心になり、墜落現場に「B29の里」という説明板を設置するなど、この事件を語り継ぐ努力を続け、2010年11月には「B29友好碑」を建立し、在日米軍の代表も参加して慰霊祭を開催した。
B-29 友好碑
「太平洋戦争 米軍機B29墜落地 昭和20年(1945年)1月3日 ソダメ地区の山林」 案内板
B-29 “The Leading Lady” のCREW写真

参考資料等

POW研究会HP「本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士」
 http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/index.html
青森空襲を記録する会HP「本土空襲墜落機調査」
 http://aomorikuushuu.jpn.org/mia.html
中央評論『日本全国B29慰霊碑物語』(299号、305号)
 https://www.chuo-u.ac.jp/aboutus/communication/press/2019/02/912/
Investigation Division Report, Legal Section, GHQ/SCAP
 https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/LS.php