B29-#42-24474

墜落日時    1944年8月20日
墜落位置    長崎県壱岐郡郷ノ浦村      
所属      第58爆撃団第462爆撃群第771爆撃飛行隊         
攻撃目標    八幡製鉄所      
墜落原因    戦闘機
TAIL CODE    Solid Blue Rudder
ニックネーム

搭乗員

機内配置氏名階級認識番号生死
操縦士(CAPT)CARMICHEL, Richard H. 大佐 o-20203
副操縦士(CPLT)SKEDSVOLD, Carl A.中尉o-751203 X
爆撃手(BOMB)MANN HAROLD J.少佐o-660380
航法士(NAV)PERRY, Edward A.少佐o-429285
機関士(FE)CLARK, Paul M. 准尉T-192821
ROWALLACE, Remick 軍曹31165077 X 
RCM-ObsHOWARD, Chalies M.伍長 38449412
中央火器管制(CFC)TIMS, Chester E.大尉o-443425 X
右銃手(R.GUN)LIVINGSTON, Gerald B. 軍曹18130167  
左銃手(L.GUN)DETTRRA JOSEPH B. Jr上等兵11011124
尾部銃手(T.GUN)FISCHER, John A.軍曹32495365

 八幡爆撃後、日本軍機の攻撃を受け壱岐島初山村に墜落した。撃墜者は陸軍飛行第四戦隊佐々利夫大尉(屠龍)とみられる。
 1人は海上に落下して死亡。2人はパラシュートが開かず山中に墜落死。遺体は現場付近に土葬されたが、戦後火葬して初山村釘崎の元陸軍墓地に埋葬。1946年6月25日に米軍が遺灰を回収した。  機長のRichard H.CARMICHAEL大佐とJohn A.FISHER軍曹の2人は海軍に捕まり、大船海軍捕虜収容所へ送られ、12月に大森捕虜収容所に移送。戦後米国へ帰還。   Paul M.CLARK少尉、Joseph B.DETERFA Jr.一等兵、Charles M. HOWARD伍長、Gerald B.LIVINGSTON軍曹、Edward A. PERRY少佐の5人が壱岐島で、Harold J.MANN少佐は付近の島で捕虜となり、福岡の西部軍司令部を経て東京の防衛総司令部へ送られた後、大森捕虜収容所に移送。戦後米国へ帰還。  
 2010年8月15日、同島出身の豊永正臣氏により石造りの慰霊碑が3カ所(米軍戦士の墓跡、B-29主翼部墜落地、B-29尾翼部墜落地)に建てられた。 
 2020年9月18日、初めての慰霊祭が開催され、在福岡米領事館 首席領事や関係者10名が参列した。また、生存した搭乗員のご遺族からのメッセージや、B-29墜落時に見つかった女性の写真が、2020年5月に判明した事例が紹介された。

「THE MEMORY OF THE U.S.SOLDIERS 米軍戦士の墓跡」の碑
33°43’39.8″N 129°41’52.5″E ( https://goo.gl/maps/D8SpzTydERT4kCuX9 )
墜落直後、ここに死亡した搭乗員2名が埋葬された。

2020年9月18日  献花する在福岡米領事館 首席領事 ジョン・C・テイラー 氏

1944年8月20日 墜落地点付近の女学生により拾われた写真。 2020年5月29日 サイト管理人によって墜落したB-29の爆撃手 Harold J. Mann少佐の妻、Mary Helen Mann と判明した。

搭乗員の1人がパラシュートが開傘せず墜死した場所。現在、ゴルフ練習場の敷地内にあるコンクリート構造物(井戸)の横附近に落ちたとされる。 ここで墜死した人物は右肩を負傷していたCFC担当 TIMS CHESTER E.大尉と推察される。
33°43’33.7″N 129°43’04.2″E ( https://goo.gl/maps/MwYfK2xUxfdpPuqr5 )

参考資料等

POW研究会HP「本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士」 
 http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/index.html
青森空襲を記録する会HP「本土空襲墜落機調査」
 http://aomorikuushuu.jpn.org/mia.html
Investigation Division Report, Legal Section, GHQ/SCAP 
 https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/LS.php
壱岐日々新聞 第547号 2010年(平成22年)8月20日
長崎新聞 2020年(令和2年)9月19日