B29-#44-69978

墜落日時    1945年5月25日
墜落位置    千葉県長生郡日吉村榎本1650番地
所属      第313爆撃団第504爆撃群第398爆撃隊
攻撃目標    東京市街地
墜落原因     
TAIL CODE    〇E ?
機体ニックネーム

搭乗員

機内配置氏名階級認識番号生死
操縦士(CAPT)HITT, Samuel B.中尉o-730029 X
副操縦士(CPLT) FIELDER, Floyd F.中尉o-1698150
爆撃手(BOMB)EMRY, Darwin T.少尉o-706615 X
航法士(NAV)SHERIDAN, George L.少尉o-2063525
機関士(FE)SOTO, Abel P.軍曹39572055
通信士(RDO)SANTEILL, Charles M.軍曹12239663 X
レーダー(RDR)REEDER, Harmon  Jr.少尉o-2073213
中央火器管制(CFC)TYRING, Dennis E.軍曹17090435
右銃手(R.GUN)BOYD, John W.伍長34828325 X
左銃手(L.GUN)SMITH, James R.伍長34828325 X
尾部銃手(T.GUN)SHEEHAN, Paul R.伍長31372745 X
 B29は東京方面から火を吹きながら低高度で飛来し、道路に沿って不時着するような形で墜落した。
 機長のSamuel B.HITT中尉を含む6人のうち4人が機体とともに墜落死したが、2人は瀕死の重傷ながら、まだ生きていた。彼らは長栄寺に駐屯していた第147(護北)師団426連隊第1大隊第1挺身中隊員によって長栄寺に運ばれたが、このうち氏名不詳の1人は何の手当も施されないまま明け方に死亡した。もう1人のDarwin T.EMRY中尉は苦しみ続けており、午後になって中隊長の満淵正明大尉の命令により、100人以上の村人の見守る中、衛生兵の境野鷹義曹長によって斬首された。さらに、彼の遺体は菊池重太郎中尉の指揮下で、新参兵らの刺突演習の材料とされた。この件は上部へ報告されることなく、遺体は長栄寺の背後の墓地に埋葬された。
 戦後の横浜裁判で満淵正明大尉は、「処刑は、安楽死のため、武士の情けとして介錯したもの」と主張し、武士道裁判と呼ばれたが、残虐行為の首謀者として絞首刑に処せられた。また、菊池重太郎中尉は懲役25年、境野鷹義曹長は逃亡を続けていたが、後に出頭し終身刑、刺突演習に加わった下級兵士6人は懲役1~2年となった。
 5人が榎本の水田、桜谷の山林、針ケ谷の水田、徳増などにパラシュート降下して捕虜。 彼らは日吉小学校や長栄寺に連行され、同日午後に茂原憲兵隊員の手によって千葉憲兵分隊を経て東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還したが、そのうち1人は航海中の病院船内で死亡した。

 1996年5月25日 長柄町榎本の長栄寺で、斬首を命じた満淵正明大尉と、EMRY中尉の2人を弔った鎮魂碑の開眼供養が執り行われた。   

参考資料等

POW研究会HP「本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士」
 http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/index.html
青森空襲を記録する会HP「本土空襲墜落機調査」
 http://aomorikuushuu.jpn.org/mia.html
中央評論『日本全国B29慰霊碑物語』(299号、305号)
 https://www.chuo-u.ac.jp/aboutus/communication/press/2019/02/912/
Investigation Division Report, Legal Section, GHQ/SCAP
 https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/LS.php
千葉日報 1996年(平成8年) 5月25日